Yaleで、遊んで学ぶ日々。
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囲碁、ときどきプログラミング、ところにより経済。
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漫画『ヒカルの朞』では、ヒカルは祖父の家の倉で藤原佐為と出会うが、やはり祖父の家には宝が眠っているものらしい。僕の場合、古い囲碁講座テキストを祖父宅の本棚に発掘した。かつて祖父には熱心に碁を勉強していた時期があって、通信講座を利用して初段だか三段だかの免状をもらったりしていたらしく、その名残りが本棚にひっそりと眠っていたわけである。講座の担当は故・梶原武雄九段。「これにてオワ」で有名な、昭和の囲碁棋士である。
祖父の許しを得て、テキストを9冊ほど借りてきた(15冊全部借りてくれば良かったと後悔している)。梶原節冴え渡る秀作である。とりわけ、氏の序盤理論は新鮮であった。部分手筋を教える本は多くあるけれども、序盤構想を一貫した思想のもと教えてくれる良書はなかなか他にないだろう。「序盤こそ碁の命である。中盤のいくさは軍人にまかせておけばよく、ヨセは事務処理だから官吏にやらせておけばよい(梶原武雄『梶原流置碁必勝法』, 2011, p.146)」という言葉には、氏の哲学があふれている。ネット対局では、ともすれば大石を追いかけて取るか取られるかの大勝負に展開することがしばしばであるが、石の取り合いではなく序盤構想にこそ碁の真理を見出さんとする姿は、どこか学者然としてすらいる。
教本としても充実したものに仕上がってはいるが、碁の内容だけであれば僕はこうも梶原九段に心酔することはなかっただろう。氏の機知に富んだ表現の数々は、このテキスト第二の楽しみである。解説書の体をなるにあたっては、そもそも正しくなくてはお話にならない。さらに、論理の飛躍があっては解説としての目的を果たせぬから、筋道が通っていることもまた肝要である。しかしながら、一流の文章というものは、どうもそこへさらに独特の味付けを加えるものらしい。「論理的=退屈」という公式は、世の理屈屋が世間に広めてしまった誤謬にすぎず、真の教養人には他者を惹き込む技術が備わっているようだ。僕も文を著す職を志す者として、いずれはこの高みに達したいものだ(できれば日本語・英語の両方で)。
以下に、いくつか特に気に入った箇所を引用してみよう。
「たとえてみれば、定石とは昔の名手たちが、囲碁という大平原に作ってくれた一本の道路のようなものであろうか。だいたいは舗装道路であるが、ときにはジャリ道になったり、細くなったりする。あなたは、この道路を信用して、自動車でスッ飛ばしているわけだが、その日の天候や道路事情も考えねばならぬことは無論であり、機械的に、あるいはマンネリにハンドルを操作するのは最も危険である・・・」
「碁を覚えて以来数年、あるいは数十年。毎局毎局つきあってきた定石が、大の悪妻であったと知ったら、あなたは即刻、三行り半をつきつけねばならぬ・・・」
「黒1などと打つのは白壁にヘバりついたセミのようなもの。白に4と迫られて、叩き落とされてしまうだろう」
「白△の八子は、今打ったばかりの手であるが、・・・白はこの八年間というものは、一体何をしていたのだろう。ただ、ズラズラとダメを走りまくり、黒さんに上下でもうけていただいたに過ぎぬ・・・」
「白は18とアタマを持ち上げ、一手三目の日当を四目に値上げしようとした」
「全局を点検すれば、白△の一子がどうもダメに近いところにいるらしいと分る。盤上の全部の石はそれぞれ地面を耕しているのに、この一子だけはタバコなどくわえて一服しているらしい」
祖父の許しを得て、テキストを9冊ほど借りてきた(15冊全部借りてくれば良かったと後悔している)。梶原節冴え渡る秀作である。とりわけ、氏の序盤理論は新鮮であった。部分手筋を教える本は多くあるけれども、序盤構想を一貫した思想のもと教えてくれる良書はなかなか他にないだろう。「序盤こそ碁の命である。中盤のいくさは軍人にまかせておけばよく、ヨセは事務処理だから官吏にやらせておけばよい(梶原武雄『梶原流置碁必勝法』, 2011, p.146)」という言葉には、氏の哲学があふれている。ネット対局では、ともすれば大石を追いかけて取るか取られるかの大勝負に展開することがしばしばであるが、石の取り合いではなく序盤構想にこそ碁の真理を見出さんとする姿は、どこか学者然としてすらいる。
教本としても充実したものに仕上がってはいるが、碁の内容だけであれば僕はこうも梶原九段に心酔することはなかっただろう。氏の機知に富んだ表現の数々は、このテキスト第二の楽しみである。解説書の体をなるにあたっては、そもそも正しくなくてはお話にならない。さらに、論理の飛躍があっては解説としての目的を果たせぬから、筋道が通っていることもまた肝要である。しかしながら、一流の文章というものは、どうもそこへさらに独特の味付けを加えるものらしい。「論理的=退屈」という公式は、世の理屈屋が世間に広めてしまった誤謬にすぎず、真の教養人には他者を惹き込む技術が備わっているようだ。僕も文を著す職を志す者として、いずれはこの高みに達したいものだ(できれば日本語・英語の両方で)。
以下に、いくつか特に気に入った箇所を引用してみよう。
「たとえてみれば、定石とは昔の名手たちが、囲碁という大平原に作ってくれた一本の道路のようなものであろうか。だいたいは舗装道路であるが、ときにはジャリ道になったり、細くなったりする。あなたは、この道路を信用して、自動車でスッ飛ばしているわけだが、その日の天候や道路事情も考えねばならぬことは無論であり、機械的に、あるいはマンネリにハンドルを操作するのは最も危険である・・・」
「碁を覚えて以来数年、あるいは数十年。毎局毎局つきあってきた定石が、大の悪妻であったと知ったら、あなたは即刻、三行り半をつきつけねばならぬ・・・」
「黒1などと打つのは白壁にヘバりついたセミのようなもの。白に4と迫られて、叩き落とされてしまうだろう」
「白△の八子は、今打ったばかりの手であるが、・・・白はこの八年間というものは、一体何をしていたのだろう。ただ、ズラズラとダメを走りまくり、黒さんに上下でもうけていただいたに過ぎぬ・・・」
「白は18とアタマを持ち上げ、一手三目の日当を四目に値上げしようとした」
「全局を点検すれば、白△の一子がどうもダメに近いところにいるらしいと分る。盤上の全部の石はそれぞれ地面を耕しているのに、この一子だけはタバコなどくわえて一服しているらしい」
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