Yaleで、遊んで学ぶ日々。
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囲碁、ときどきプログラミング、ところにより経済。
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この夏のもう1つのイベントは、国際法模擬裁判大会 Asia Cup Japan Round の裁判官(審査員)を務めるというもの。僕はこの大会のOBで、学部生時代に出場経験がある。卒業後に大学院生になったり法律関係の仕事に就いたりしていると、裁判官役が回ってきたりする。今回で2年ぶり3回目である。
少しばかり宣伝しておくと、この大会では架空の2国間での法的な国際紛争が発生し、その紛争が国際司法裁判所へ持ち込まれたという問題が与えられる。で、原告・被告それぞれの代理人という立場に立ってどういう主張を展開するか、という形で競い合うのである。詳しくは、数年前に書いた紹介文がまだweb上に残っているのでそちらを参照のこと。準備書面および弁論で勝敗を決するのだけど、大学院生に回ってくるのは弁論の審査である。原告・被告がそれぞれ弁論するのだけど、ディベートのように両陣営が議論を戦わせるというよりは、裁判官に向かって法的な理由付けを説明し、どちらがより説得的であったかが審査されるという形で、口頭試問に近い。弁論中には裁判官が弁論者に対して問いを投げかけるので、それらに対してどれだけ適切に答えきることができるかで評価が決まる。
自分が出場したのは2003年なので、もう6年も前か。当時の自分を思い返せば恥ずかしくて偉そうなことも言えないのだけど、やはりプレゼンテーションのスキルがもう1つかな、という印象をもった。本来、弁論は自由で、審査する裁判官を説得するために最良なものを自分で決めてよいはずなのだけれど、どうも「国際法模擬裁判用の弁論のしかた」みたいなものが染み付いているようだ。定型の弁論をすると最低限の体裁をつけるこができて、模擬裁判における最もシンプルな手段ではあるのだけど、より良い弁論がというのは別に必ずあるはずである。自分なりのアレンジをする場合に大切なのは、審査員と同じ視野・問題意識に立つということだ。視野を共有さえできれば、形はどうあれ議論を理解しあうことができる。自分が最も説得力があると思える弁論のしかたを選んで問題ない。視野の共有に必要なのは、審査側と同程度以上に問題を理解することだ。そういう意味で、この模擬裁判におけるプレゼンテーションの技術は結局のところ理論の理解度に負うところが大きい。質問に対する瞬発力や言葉遣いの上手さは、深い理解があってはじめて生きてくる。
専門分野が法学でないにも関わらず、いまだに声をかけてくれるのはとてもありがたい。経済学と法学のオーバーラップとしては、「法と経済学 (Law and Economics, Economics of Law)」というのが確立されているけど、これは主として制度設計に関する話で、国際法(ここでは国際公法を指す)への適用には直接関係がない。法と経済学で主に考えられているのは、法律を国家権力により裁判・行政措置を通じて履行される資源配分とみなし、どのような配分のもとで各人の望ましい行動が誘導されるか、という問いで、よく使われるツールはゲーム理論である。ゲーム理論では、各人の行動(action)と、行動に応じて決まる結果(payoff)が与えられた状況下での行動選択(strategy, behavior)を理論化するので、ぴったり当てはまるわけである。つまり、ある行動に対してどのような結果を付与するか、というゲームの構造が法律に該当する。
国際法に直接適用できない最大の理由は、その法律を履行する権力主体が存在しないことだ。世界政府のようなものが存在しないので、各国家に対し強制的に何かを履行することができない。国際法の履行は、大抵国家群の共同行動による自主的なものである。経済制裁や武力行使がそれに該当して、法による支配とは質的に異なる。違反する主体と裁く主体が対等関係にあるのである。
で、支配主体が存在しない状況もゲーム理論による記述は可能である。協力関係の自主履行(self enforcement)に関する議論がそれで、典型的な例は企業間の共同での価格引き上げなどだ。同じ産業に属する企業が共同して価格を引き上げる約束をした場合、これはカルテル行為に該当し、独占禁止法違反になる。一企業が約束を反故にして価格を据え置いたとしても、他の企業は契約違反として訴えることはできない。公序良俗に反する契約として無効扱いになるためである。したがって、法による履行が得られないため、その約束の履行は専ら自主履行によることになる。
ゲーム理論がこうした契約関係の成立に対して与える理由付けは、長期的な協力関係だ。1度約束に反して低価格をつけると、一時的には他社から需要を奪うことができるが、その後はカルテルを組むことが難しくなり厳しい価格競争さらされることとなるので、長期的な視野から協力(共謀)するという理屈である。国際関係にもそのアナロジーが適用できる。勝手な行動を取り続けているとか他国から制裁をうける恐れがあるので、国家は強制主体がいないにも関わらず国際法を自主的に遵守する。では何故遵守しない国家が未だに存在するのか? もちろん自主履行可能な契約とそうでない契約がありうる。その基準の理解こそが、研究課題になる。トリビアルな説明は、制裁措置の有効性や、違反から得られる利益の高さなどだろうか。
国際法をこういうふうに捉えると、どうもいわゆる国際関係(international relation)と呼ばれる分野との差異がないように思える。実際リアリスティックな発想で考える限りは両者に違いはないと僕は思っている。経済学はそれ自体が相当にリアリスティックな学問なのである。
と、いうような研究は今のところ一部の国際法学者が関心持ち始めたところのようである。国際法専攻の友人が紹介してくれたのはGoldsmith and Posner による本。University of Illinois Law Reviewの2008年1号では特集が組まれたらしい。この分野を博士論文のテーマにするかどうかは現在思案中。
少しばかり宣伝しておくと、この大会では架空の2国間での法的な国際紛争が発生し、その紛争が国際司法裁判所へ持ち込まれたという問題が与えられる。で、原告・被告それぞれの代理人という立場に立ってどういう主張を展開するか、という形で競い合うのである。詳しくは、数年前に書いた紹介文がまだweb上に残っているのでそちらを参照のこと。準備書面および弁論で勝敗を決するのだけど、大学院生に回ってくるのは弁論の審査である。原告・被告がそれぞれ弁論するのだけど、ディベートのように両陣営が議論を戦わせるというよりは、裁判官に向かって法的な理由付けを説明し、どちらがより説得的であったかが審査されるという形で、口頭試問に近い。弁論中には裁判官が弁論者に対して問いを投げかけるので、それらに対してどれだけ適切に答えきることができるかで評価が決まる。
自分が出場したのは2003年なので、もう6年も前か。当時の自分を思い返せば恥ずかしくて偉そうなことも言えないのだけど、やはりプレゼンテーションのスキルがもう1つかな、という印象をもった。本来、弁論は自由で、審査する裁判官を説得するために最良なものを自分で決めてよいはずなのだけれど、どうも「国際法模擬裁判用の弁論のしかた」みたいなものが染み付いているようだ。定型の弁論をすると最低限の体裁をつけるこができて、模擬裁判における最もシンプルな手段ではあるのだけど、より良い弁論がというのは別に必ずあるはずである。自分なりのアレンジをする場合に大切なのは、審査員と同じ視野・問題意識に立つということだ。視野を共有さえできれば、形はどうあれ議論を理解しあうことができる。自分が最も説得力があると思える弁論のしかたを選んで問題ない。視野の共有に必要なのは、審査側と同程度以上に問題を理解することだ。そういう意味で、この模擬裁判におけるプレゼンテーションの技術は結局のところ理論の理解度に負うところが大きい。質問に対する瞬発力や言葉遣いの上手さは、深い理解があってはじめて生きてくる。
専門分野が法学でないにも関わらず、いまだに声をかけてくれるのはとてもありがたい。経済学と法学のオーバーラップとしては、「法と経済学 (Law and Economics, Economics of Law)」というのが確立されているけど、これは主として制度設計に関する話で、国際法(ここでは国際公法を指す)への適用には直接関係がない。法と経済学で主に考えられているのは、法律を国家権力により裁判・行政措置を通じて履行される資源配分とみなし、どのような配分のもとで各人の望ましい行動が誘導されるか、という問いで、よく使われるツールはゲーム理論である。ゲーム理論では、各人の行動(action)と、行動に応じて決まる結果(payoff)が与えられた状況下での行動選択(strategy, behavior)を理論化するので、ぴったり当てはまるわけである。つまり、ある行動に対してどのような結果を付与するか、というゲームの構造が法律に該当する。
国際法に直接適用できない最大の理由は、その法律を履行する権力主体が存在しないことだ。世界政府のようなものが存在しないので、各国家に対し強制的に何かを履行することができない。国際法の履行は、大抵国家群の共同行動による自主的なものである。経済制裁や武力行使がそれに該当して、法による支配とは質的に異なる。違反する主体と裁く主体が対等関係にあるのである。
で、支配主体が存在しない状況もゲーム理論による記述は可能である。協力関係の自主履行(self enforcement)に関する議論がそれで、典型的な例は企業間の共同での価格引き上げなどだ。同じ産業に属する企業が共同して価格を引き上げる約束をした場合、これはカルテル行為に該当し、独占禁止法違反になる。一企業が約束を反故にして価格を据え置いたとしても、他の企業は契約違反として訴えることはできない。公序良俗に反する契約として無効扱いになるためである。したがって、法による履行が得られないため、その約束の履行は専ら自主履行によることになる。
ゲーム理論がこうした契約関係の成立に対して与える理由付けは、長期的な協力関係だ。1度約束に反して低価格をつけると、一時的には他社から需要を奪うことができるが、その後はカルテルを組むことが難しくなり厳しい価格競争さらされることとなるので、長期的な視野から協力(共謀)するという理屈である。国際関係にもそのアナロジーが適用できる。勝手な行動を取り続けているとか他国から制裁をうける恐れがあるので、国家は強制主体がいないにも関わらず国際法を自主的に遵守する。では何故遵守しない国家が未だに存在するのか? もちろん自主履行可能な契約とそうでない契約がありうる。その基準の理解こそが、研究課題になる。トリビアルな説明は、制裁措置の有効性や、違反から得られる利益の高さなどだろうか。
国際法をこういうふうに捉えると、どうもいわゆる国際関係(international relation)と呼ばれる分野との差異がないように思える。実際リアリスティックな発想で考える限りは両者に違いはないと僕は思っている。経済学はそれ自体が相当にリアリスティックな学問なのである。
と、いうような研究は今のところ一部の国際法学者が関心持ち始めたところのようである。国際法専攻の友人が紹介してくれたのはGoldsmith and Posner による本。University of Illinois Law Reviewの2008年1号では特集が組まれたらしい。この分野を博士論文のテーマにするかどうかは現在思案中。
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